沿革
弊社沿革その1〜創業から終戦まで〜弊社沿革その2〜終戦から平成まで〜弊社沿革その3〜平成7年から現在まで〜
弊社沿革その1〜創業から終戦まで〜
明治36年から昭和20年まで
福島印刷はおかげさまで明治36年5月(1903年)の創業から数え今年で創業119年を迎えております。翌年の明治37年には日露戦争がおこった時代です。
昭和8年8月(1933)軍旗祭 昭和8年8月(1933)軍旗祭
第2師団 新発田第16連隊・軍旗拝受50周年記念軍旗祭の仮装行列。福島印刷が創業した場所である現在の新潟県新発田市大手町2丁目とその周辺は、当時「西ヶ輪」と呼ばれ、現在の陸上自衛隊新発田駐屯地には、歩兵第十六連隊がありました。
「西ヶ輪(にしがわ)」は溝口候の築城当時の西曲輪(にしくるわ)が訛り、つけられた町名だと言われています。江戸時代の西ヶ輪には郡奉行・町奉行をはじめ多くの、上・中級武士が住んでいました。

昭和初期 満州事変凱旋祝アーチ
新発田16連隊凱旋祝アーチ飾り。向かって左側手前から大森そば屋の屋台、末広、渡辺提灯屋。右側電柱前が、川上肉屋、梶浦医院。奥は連隊方向。(敬称略)
昭和初期 満州事変凱旋祝アーチ
明治になってからは歩兵第十六連隊の営門前通りとなり、十六連隊相手の商店が軒を連ね、アーチ型の街灯が新発田の夜を彩るようになりました。

創業者 初代 福島新太郎創業者 初代 福島新太郎
そんな中、私達福島印刷の前身である福島新太郎商店は、現在も福島印刷のあるこの場所で、連隊の御用商として創業します。御用商としての仕事は「よろず引き受け」的なものでした。仕事内容は物品調達、隊舎のストーブの取付け取外しやお堀の江浚えなど、多岐に渡っていたようです。

連隊がおかれてから、新発田には県内外から来た多くの軍人とその家族が住むようになります。連隊の兵隊数は三千人以上と考えられ、新たな入営者は年間七百〜九百人だったようです。

昭和4年 西ヶ輪青年団の鷹の巣温泉旅行
前列向かって右端は佐藤会長、後列向かって左側より二人目が二代目福嶌新太郎
昭和4年 西ヶ輪青年団の鷹の巣温泉旅行
入営は二年間で、その後除隊となりました。除隊は七月と十一月の年二回で、その時、記念品や土産物を買って、郷里へ帰っていきました。

風呂敷、手ぬぐい、タオル、盃、おぼん、茶器、軍服、靴、トランク、和服、洋服など大部分は兵営前通りの西ヶ輪で購入。商店街図のように商店街ができあがりました。

↓クリックで拡大します。
西ヶ輪商店街
未舗装の土の道路を沢山の人が往来し踏みしめていったことで道が固く締まり、「ガス管を埋める工事が町で一番難儀」な通りであったと言われていたことからも当時の賑わいが想像できます。一方、福島新太郎商店は店頭でも陸軍の日用品を販売し、店商いの中で連隊の入隊、除隊の挨拶状印刷を始めた事が、現在の福島印刷の始まりでした。入隊、除隊の挨拶状印刷はとても需要があり良い商いをさせて頂いていたようです。

当社に残っている戦前に使用していた「通い箱」には、「印刷と軍用品」という文字が書いてあります。このことから昭和10年代には商いの主力を「印刷」にしていたようです。

昭和15年から昭和20年まで使用された「通い箱」 昭和15年から昭和20年まで使用された「通い箱」
連隊への納品はいくつもの「通い箱」に入れられ行われていました。
箱の横には「印刷と軍用品 福島新太郎商店」と書いてあります。
この「通い箱」はなんと紙でできています。(北越製紙のFIBRE使用)とても丈夫な箱で、66年たった現在でもりっぱに使えます。

上に戻る

弊社沿革その2〜終戦から平成まで〜
昭和20年から平成7年
昭和20(1945年)年8月の終戦により、福島新太郎商店は本格的に印刷業に移行し、社名も福島印刷所と改めました。
昭和35年・36年の福島印刷所店先
昭和35年・36年の福島印刷所店先
左写真の戸の奥に福島印刷所の看板を提げた自転車があります。当時はこの自転車に印刷物を積んで、遠くは約15km離れた中条町(現胎内市)まで納品していました。昭和39年頃には、スクーターに替っていったようです。

昭和39年 店先から道路を挟んで高森商店さんを撮影
舗装道路が現在ほど
滑らかではありません。
昭和39年 店先から道路を挟んで高森商店さんを撮影
東京オリンピックを間近に控えた昭和37年(1962年)から昭和38年(1963年)頃、印刷業界は大きな転換期に入っていきました。グーテンベルクの発明から約500年続いた活版印刷方式から、活字を使わないオフセット印刷への転換が始まったのです。

オフセット印刷とは水と油がはじき合う特性を利用して凹凸のない薄い平面の版を印刷機に巻き付けて印刷する方式です。そのため平版印刷とも呼ばれています。

当社でも当時の専務 福嶌正樹(現会長)が印刷業界紙「印刷界」に載った(有)晃文堂(現 リョービイマジックス(株))の軽オフの広告を見て、昭和39年(1964年)に新潟県の軽オフ第1号機の導入を決定します。

新潟国体が終わった翌日、軽オフ印刷機を工場に配置するために、昼食を食べながら大工さんと工場増築の打ち合わせをしていた最中、地震が発生しました。この地震が昭和39年6月16日の新潟地震です。その直後から大工さんは地震の復興に追われ当社の機械設置が大幅に延びたそうです。当社では活字を入れておいた棚(ゲラ棚)が全てひっくり返ったそうです。

軽オフは入れたものの当初はうまく操作できなかったようです。そこで、当時の専務 福嶌正樹と天尾靖夫(前工場長)の二人が山形県の鶴岡や東京など技術収得のため出向きました。最後は東京で1週間の研修となり、息抜きに後楽園球場にプロ野球を見に行ったりしたようです。

その後5年で軽オフを3台に増設し、主に病院で使うカルテを印刷していました。一方、昭和42年(1973年)2月に会社を法人化し株式会社 福島印刷と改組いたしました。

HEIDELBERG KORD
HEIDELBERG KORD
いざなぎ景気がそろそろ終わろうとしていた昭和45年(1970年)に工場を建て替えを行いました。その3年後の昭和48年5月(1973年)当社でははじめてのオフセット印刷方式の大型機械(A2版)KORDを印刷機械貿易(株)(現 ハイデルベルグ・ジャパン(株))より導入しチラシなどの大量生産印刷物に対応ししていきました。

昭和45年から平成9年までの福島印刷

写真は平成9年撮影。
当初は会社の側面(写真中央やや左側)に
大きく株式会社福島印刷と書かれていた。

昭和45年から平成9年までの福島印刷
また昭和53年7月(1978年)に導入したGTOZの2色反転機(HEIDELBERG社製)は単面の年賀状にカラー印刷できたことから、毎年多くのカラーの年賀状印刷をおこない、いまでは福島印刷の風物詩的な仕事になっています。

福島印刷は現在、作業工程によって営業部・企画デザイン部・製版部・印刷部の4つの部所に分かれています。現在のこの組織の原型は昭和39年の軽オフを設備したことにはじまりました。軽オフ印刷機には、それまでの活字を使った版が使用できなかったので、それまで公文書の作成などに使っていた和文タイプライターを活用し、活字と併設して使用しました。現在の企画デザイン部のはじまりです。

当時の和文タイプライターは、9ポイントあるいは10ポイントの文字を刻んだ小さな活字を入れた長方形の文字盤を使用しました。文字盤は細かく正方形に仕切られ、約2,800個の活字が一枠ごとに入れられたものです。その活字を一文字づつ上部に巻き付けたガリ版刷り用などのペーパーに打刻していきました。

打刻はタイプライターのアームを押し下げることでおこないます。書体は明朝体とゴシック体しかなく、文字のウェート(太さ)は打刻の強さでオペレーターが調節してたそうです。このため「。」や「、」などの小さい文字はペーパーをやぶかないため打刻の強さに神経をつかったそうです。

大阪万博の翌年の昭和46年5月(1971年)当社で最初の写植機を(株)写真植字研究所(現(株)写研)より導入しました。写植機は文字盤が活字ではなくネガの状態のガラス板です。また、打刻用のアームは電球の光源を光らせるシャッターになっていました。シャッターをきられた光は文字盤の下より放たれ、ネガのガラス版を通過することで文字の形になり、上方の外光を遮断した箱の中の印画紙を感光させます。

この方法でオペレーターは文字盤を前後左右に動かし、植字したい文字を光源の上に滑らせ一文字一文字シャッターをきってゆきます。そして印画紙を取り出し暗室の中で現像します。写植機は光の通過点にレンズがあり文字の級数や変形(斜体や長体など)ができ、そのためタイプライターのようにポイント毎に文字盤を取り替える必要がありませんでした。

また打刻方式ではないので、安定してきれいな文字をつくれました。しかし事前に文字詰めの計算などをしたりしなければならないので、文字打ちには時間がかかりました。そこで福島印刷では、本や文集などの文字を中心とした印刷物の版下(印刷用の版で一番最初に作成する版)はタイプライターで作り、デザインが中心のチラシやパンフレットの版下は写植で文字をつくりました。

タイプライターはその後自動化が進みタイプレスになっていきます。DTPがはじまる25年後まで福島印刷では写植とタイプレスで版下作りがおこなわれ双方4〜5台づつの機械が設置されました。

一方、製本部では昭和52年(1977年)の中綴じる機をかわきりに自動丁合機、無線綴じ機と設備をし、受注から納品まで社内で一貫生産できる総合印刷会社として、お客様のご要望に対応できるよう努めました。

上に戻る
弊社沿革その3〜平成7年から現在まで〜
平成7年から現在まで
昭和30年代の活版印刷からオフセット印刷への移行は印刷業界に大きな変革をもたらしましたが、1990年代初頭から広がりはじめたDTP(Desktop publising、デスクトップ パブリッシング)も印刷業界に第二の変革をもたらしました。

DTPは当初コンピュータを利用することにより、製版フィルムをいかにして楽に作れるかということからはじまりましたが、後に印刷前工程(文字打ち、版下のフィニッシュ、写真取り、集版、製版、刷版焼き付けなどの印刷機を動かす直前までの工程。 プリプレス。)の大部分をアナログからデジタルに替えていきました。福島印刷でも写植機やタイプが1台1台と姿を消していきました。

Power Macintosh 8115/110Power Macintosh 8115/110
福島印刷でのDTPは平成7年(1995年)にPower Macintosh 8115/110(パワー マッキントッシュ)を購入したことからはじまりました。導入にあたり、 大日本スクリーン製造(株)製のレナトスというCEPS(入力、画像処理、修正、出力などがコンピューターを使って一貫してできるシステム)とLuxScan4500II(ラックスキャン4500、富士写真フイルム(株)製のカラースキャナー)とMacintoshを中心としたシステムとで迷いました。しかし最終的にはMacintoshの将来性に懸け、後者のシステムに決めました。

福島印刷で当初Macintosh(以下マック)はカラースキャナーの画像修正機として活用していました。マック及びソフトAdobe Photoshopの操作は水原町(現阿賀野市)の佐々木写真館・佐々木 暁氏に教えていただきました。大変感謝しております。

その後企画制作部の文字入力、デザインはすべてマックやウィンドウズに替わっていきます。企画制作部の社員には、かつて分業制だった仕事を全て一人で行う高い能力がもとめられるようになってきました。

平成9年10月に完成した福島印刷社屋 平成9年10月に完成した福島印刷社屋

平成9年10月(1997年)には同じ場所に新社屋を建てます。工事は(株)石井組様にお願いし、工場を稼働させながらの変則工事となりました。まずはじめに後ろ半分を建て、それから工場内の設備を完成部分に移し、旧工場を取り壊し、前半分を建てました。


COLOR DOCU TECH 60VCOLOR DOCU TECH 60V

平成15年(2003年)にオンデマント印刷機のCOLOR DOCU TECH 60V(カラードキテック60V)を設備して、カラーの年賀状印刷で培った小ロットのカラー印刷をさらにご利用していただきやすいものといたしました。

オンデマント印刷とは簡単に言えば、業務用レーザープリンターのことです。オフセット印刷機がインキを使うのに対しオンデマント印刷機はトナーを使います。さらに大きな違いはオフセット印刷機のように版をつくって巻き付けるのではなく、パソコンからデータを送るだけで印刷できます。仕上がりは、さすがに業務用だけあって素晴らしく綺麗です。

平成15年より、ブライダルカード(結婚式の招待状・席次表など)を自社デザインで開発・製作し、全国でも有数の生産数を記録しました。中には、特許申請中のものや、実用新案を取得したものもあります。

平成18年には、全国の工務店様を対象としたオリジナルデザイン図面集の販売を開始。これは弊社と契約した設計士がデザインした住宅の外観や間取り図面をまとめたもので、自由に使える図面データをCDで添付しています。その内容は日本経済新聞社様より取材を受け、記事掲載されました。

ここまで長い話にお付き合いいただき本当にありがとうございます。福島印刷は時代を超えたくさんの人々に支えられてまいりました。これまでお仕事をいただいたお客様、お力添えをいただいたお取引先様、地域の皆様にあらためまして感謝いたします。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
この原稿の終戦前までは新発田市文化財調査審議会委員長 川瀬勝一郎先生、佐藤歯科医院、佐藤泰彦先生にお話しをお伺いいたしました。本当にありがとうございます。また佐藤先生には貴重なお写真をお借りしました。また、終戦以降は、当社会長をはじめ社員の記憶を中心に書きました。福島印刷には笑顔で社史を語れる社員が何人もおります。それは福島印刷にとって誇りだと思います。そして彼らの身近には次の社史を語る社員が今も育っているのです。

上に戻る